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北澤篤史は大学入学時から異彩を放っていました。外見に執着しない風体も去ることながら、固執する物事についてはとことん調べないと気が済まないという性格は、大学2年生時に人文学部の日本史研究室に配属されてから拍車がかかるようになりました。この北澤篤史の性格には担当教官であった樺井教授でも舌を巻くほどで、彼の研究に対する真摯ながらも愚直なまでの姿勢に周囲の人間は奇矯なものを見るような視線を投げかけ続けていました。

そんな北澤篤史が没頭した研究が、日本の古代から近世にかけて国際交流の仲立ちとなった僧侶についてでした。以前よりそのような僧侶に関する研究は行われてきましたが、北澤はそこに宗派と門派という言わば精神性の部分からアプローチし、それが各時代の国際交流とどのように結びついているのか、さらには時の政権が彼らをどのように取り込み利用していったのかについて検証を加えていきました。

しかし、この研究は当時全く見向きもされませんでした。というのも、当時日本史学会の研究の潮流は内政に関するものが主体で、発展途上の国際関係史研究には関心がなかったためでした。僧侶の来歴から北澤の研究が取り上げられることはあっても、それが国際交流においてどのように位置づけられるのかといった考察については完全に等閑視、それが日本史学会における北澤篤史の扱われ方でした。

学会において本位ではない扱われ方をされても、北澤は頑なに研究に対する姿勢を変えませんでした。発表される論文の数に比して周囲からの評価も高くはなく、北澤は結局しがない大学の非常勤講師として細々と身をつなぎながら研究を続けていました。そのような貧しい生活を続けていた時分、折悪く北澤は45歳で膵臓ガンにかかってしまいます。もともと発見が遅れやすいガンでさらに健康にも無頓着であったことから、北澤は医師から「余命半年」の宣告を受けます。しかし、それでも彼は病床でも研究を続け、ガン告知から約8ヵ月後に亡くなってしまうのです。

北澤の死から約二十年後、東アジアの国際関係が重要視されるようになりだすと、日本史学会にもにわかに国際関係史に熱い視線が向けられるようになります。特に偉大な先人を顕彰するための研究がもてはやされるようになり、交流の人的基盤について様々な研究プロジェクトが立ち上がって検証されるようになります。ここで日本史研究者たちは、はたと『北澤篤史』の名を思い出したのです。

「今から約二十年も前に、現代社会に資する素晴らしい研究を行った先達がいたのか」と、感嘆とともに後悔の混じった嘆息を漏らす研究者の数は、十や二十では済まないほどでした。結局、北澤篤史の研究は彼の死後にようやく脚光を浴びるようになったのです。同じく、死後にその画才が認められて、絵に莫大な金額が付けられるようになったヴィンセント・ヴァン・ゴッホになぞらえて、北澤は『日本史界のゴッホ』と呼ばれるようになりました。

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